コーヒーミル・アニバーサリー





「あっ……たぁああああ!」
 興奮の余り思わず叫んだ後で、しまったと咄嗟に口を押さえる。案の定壁の薄い隣室からすぐさま「うっせぇ!」と下品な罵声が飛んできた。
「ご、ごめん! 気を付けるよ」
「ったく、今課題の仕上げやってるんだから勘弁してくれ」
 レイの寝泊りしている学生寮は、ほぼ無料で借りられるということもあってかプレハブ小屋のような安っぽい外観をしている。勿論プレハブ小屋の壁が厚い訳もなく、少し大きな声を出すと隣室に筒抜けになってしまうのだった。
 レイは図らずも上がってしまった心拍数を深呼吸で整えながら、学生寮で各部屋に支給されている時代遅れのコンピューターのモニターを覗き込む。
「よ、良かった~。当日までに見付からなかったらどうしようかと思った」
 話は一週間前に遡るのだが、事務所に備え付けてあった亜柚お気に入りのコーヒーミルが壊れてしまったのだ。買い直そうかという話にもなったのだが、コーヒーミルなんて昨今アンティークでしか見掛けない上に、きちんと実用に耐えうるものなど殆どないのが現実だった。亜柚は仕方ないと笑いながらこの際電動のやつにしようか、なんて嘯いていたが、それは何となく嫌だった。レイ自身、機械音痴な手前その手動コーヒーミルには大変お世話になっていたし、何より亜柚探偵事務所に入り浸るようになってからずっと使ってきた思い出の品だ。寸分違わず同じものとはいかなくても、どうしても手動のものが欲しかった。それに、十日後はレイが亜柚探偵事務所に世話になり始めた記念日だったから、日頃の恩返しに丁度良いと奮起したのもある。
 そんなこんなで血眼になって手動コーヒーミルを探し始めてから一週間。売っていることは売っているのだが、学生の限られたアルバイト代ではとても買えそうにないものばかりで諦め掛けていた矢先に、漸く見付けた微かな希望が『これ』だった。
「にゅ、入札……と。大丈夫だよな、だってこれ、タイトルにコーヒーミルって書いてないし。てことは、検索に引っ掛からないから、競争率もかなり低くなるはずだし!」
 『これ』。
 端的に言うなら、ネットオークションに出品されていたネッコというキャラクターの描かれたキャンペーン品のコーヒーミルなのだが、出品者のミスなのか、検索用のワードにコーヒーミルという単語が入っていなかったのだ。これなら純粋にコーヒーミルを欲しがっている人間には感付かれまい。レイも、実際ネッコのグッズが欲しくて探していたら偶然見付けただけだった。オークションの終了日時は三〇分後、入札が未だ一件もないのがその事実を端的に表している。
「うー、落札出来ますように!」
 願いを篭めて入札ボタンをクリックする。緊張しつつ画面を数秒間見詰めていると、
「……え?」
 ポーン、と緊張感のない音がして、レイの入札した金額が瞬時に塗り替えられた。どうやらこの商品に目星をつけていた人間は己だけではなかったらしい。レイは心中で歯軋りした。
「ちぇっ、折角楽に手に入ると思ったのに! まあ良いや、まだ全然予算内だし、頑張ろう」  五分ほど間を置いて、レイは再入札を試みる。しかし、また瞬時に入札金額が塗り替えられてしまった。自動入札でも使っているのかと訝ったが、どうやら違うようだ。ということは、画面の向こうの競争相手は画面の前に張り付いてこちらの動向を窺っているということだ。
「このご時勢に凄い暇人だなあ……えーと、IDは『lovery_stardust_milkyway0214』……気持ち悪いIDだなあ……こんな奴には絶対負けられないや」
 決意も新たに何度か再入札を繰り返したのだが、オークションなんてものは結局努力云々ではなく金を持っているものが勝つ訳で、終了時刻一分前にして商品の値段はレイの予算の二倍にまで膨れ上がっていた。
「うああああ! もう! 腹立つ! 一体何なんだろう、こんな目立たない商品探し当てて僕が入札する度に瞬時に上書きって! どんだけ粘着質だよ! 気持ち悪いなあもう!」
「おい井柴! うっせぇって言ってんだろうが!」
「今大事なところだから黙ってて!」
「あぁ!?」
 壁越しに苦情が届いたが、それどころではないと一喝する。残り時間はあと三〇秒。予算は既に大幅オーバー。どうする? 相手の予算がどの程度か分からない手前、そろそろ引いておくべきか……!
「あ」
 悩んでいる内に、オークションが終了してしまった。
 折角見付けたのになあ、とがっくり肩を落とし、そのままコンピューターの電源も落として布団に飛び込む。今夜は事務所に泊まりに行こうと思っていたのだが、そんな気分でもなくなってしまった。記念日を祝うのにあれほど相応しいものはなかっただろうに、と思い返す度残念でならなかった。

 そして三日後の記念日、結局相応しい贈り物も思いつかずいつも通り手ぶらで亜柚探偵事務所にやって来たレイは、視界に飛び込んで来た情報を一瞬処理しきれずに固まらずを得なかった。
「やあレイ君。今日は早いね」
 ソファにだらだらと寝っ転がりながら市販の安っぽいホットケーキを頬張っている宇宙級スターの姿は、決して外には公開出来まい……と、亜柚がこんな風にだらごろしているのは別段驚くべきことではない。レイが固まった原因はそこではなく、ごろごろしている宇宙級スターの更に向こう側……窓際の、先日まで壊れたコーヒーミルが置いてあった場所に突然現れた、見覚えのありすぎる物体だった。
「あ、亜柚さん、そ、それ」
「ん? なんだい、これかい? ポケちょこ(※ポケットにちょこっと)シリーズの新作だよ。さっきCMで宣伝していてね、一箱買って来てしまったよ。沢山あるからレイ君も食べるといい」
「また亜柚さんはそうやって無駄遣いして……って、そうじゃないです。そのコーヒーミル! どうしたんですか!?」
「ああ、これかい。三日前にオークションで偶然見掛けてね!」
「も、もしかして……ラブリー・スターダスト・ミルキーウェイって」
「ん? どうしてレイ君が私のIDを知っているのかな」
「あああ……」
 レイは目の前が暗くなって行くのを感じた。あんな気持ちの悪いIDを使っていた上に、折角のプレゼント計画を台無しにしてくだすったのが尊敬する自分の上司だったなんて。
「ど、どうしたんだいレイ君。顔色が優れないけれど。ほ、ほら、君が気に入ってくれるように、私もちゃんと選んで買ったんだよ」
「……………」
「ほら! 見たまえ、君の好きなネッコのロゴが入っているんだよ。ほら、みたまえ。ほらほら」
 以前使用していたものより一回り小さなコーヒーミルを手に取ってぐいぐいと押し付けてくる亜柚の表情が余りに真剣で、レイはうっかり噴出してしまった。
「ほんとだ。写真で見るより、現物のほうが可愛らしいですね」
「?」
 三日前の攻防の相手がレイだとは夢にも思っていない宇宙級スターは、言葉の意味を量りかねたのかきょとんとした顔をしている。その表情が珍しかったので、拗ねていた気持ちが少しずつ溶けていった。
「あの、亜柚さん」
「なんだい?」
「気持ち悪いとか言ってすみませんでした」
「ぶっ。何のことかな、レイ君。私、そんなこと言われてたっけな。言われてたのに私の脳が都合よく改竄しているだけなのかい?」
「あと暇人とか粘着質とか……すみません」
「……レイ君、ちょっと詳しく……」
「あ、そうだ。亜柚さん、今日が何の日か覚えてますか?」
 尚も何か言いたげにしている亜柚には答えずに、問い掛ける。亜柚は暫く顎に手を当てて考え込んだ後で、合点が行ったように微笑んだ。
「ああ、そうか。君が事務所に来てからもう五年なんだね。早いもんだなあ」
「ええ、そうです。だから僕、何か記念にしたいなあと思って」
「そうかい? そうだね、それじゃあ後で何か一緒に考えようか」
「はいっ」
 レイは亜柚の手からコーヒーミルを受け取って、まじまじと見詰めてみた。
 結局二人して物凄い勢いで値段を吊り上げてしまったため、在り得ない値段で落札されることになったこのコーヒーミルだったが、どうあがいてもキャンペーン品なため値段相応には見えない。
 しかし、値段相応でなかろうと買ってしまったものは仕方がない。こうなったら、これから先自分が亜柚と過ごす恐らく沢山の年数、きっちり働いて貰おうじゃないかと思うと自然と口元が綻んだ。
「そうだ、レイ君。とりあえず折角手動のコーヒーミルを買ったんだから、コーヒーを淹れて欲しいな」
「そうですね。僕も早く使い心地を試してみたかったんです」
「そうかい。それじゃあ頼むよ」
 ひらひらと手を振る亜柚に頷いて、給湯室へ引っ込む。棚の中から取っておきのコーヒー豆を取り出して、レイは早速不慣れな道具を使い始めた。
 きっと不慣れだから、はじめの一杯は上手く挽けないだろう。けれど、亜柚はきっとどんな味でも微笑ってこう褒めてくれるのだ。
「君の淹れたコーヒーは苦いけれど、この味が最高だね」と。


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